わたしは心臓の手術を計3回受けていて、入院回数はもちろんそれよりもっと多いのですが、実際に記憶にあるのは小学校4→5年生の時のカテ入院以降です。
わたしが受けた手術は、記憶が微妙に曖昧なのですがおそらく下記のような感じです。
- 心内膜床の穴にパッチを当てて塞ぐ手術&僧帽弁形成(生後8ヶ月)
- 僧帽弁形成の予後が良くなく心不全を起こしちゃったので僧帽弁を機械弁にする手術(生後1歳半)
- 機械弁を大人サイズにする手術(11歳半)
ちなみにわたしの病気(完全型心内膜床欠損症/完全型房室中隔欠損症)に限らず他の先天性心疾患もそうだと思うのですが、3x年前はいまのように胎児エコーで病気が見つかることはなく、生後何ヶ月経っても大きくならない、ミルクの飲みが悪い、飲んでも吐く、などなどでおかしいと思った親が病院に連れて行って発覚したパターンです。
当時この手術を出来る病院は日本に二ヶ所しかなかったのだとか。
そして、生まれるのが10年早かったら治療法が確立されておらず助からなかっただろうとか。
手術をしないと1歳まで生きられないとか、手術前に風邪を引かせたら死ぬと言われて母はわたしと毎日家に引きこもっていたとか。
今では考えられないことだけれど、わたしは生まれた時に4020g(!)あったので、その体重のおかげで当時でも手術に踏み切ることが出来たのだとか。
母は「毎日必死過ぎて、『どうしてうちの子が』とか悲しんでいる暇がなかった」と良く言っていました。
もうとにかく色々なことが重なり合っていま生きているわけで、ありがたいことに毎日仕事のことで怒髪天になっちゃうくらいに病気を意識することなく俗っぽい普通の生活(と自分では思っている)を送っています。
以下特に何のドラマもないですが、記憶にある限りの入院時のことをつらつら書いてみます。
記憶にある最初の入院はわたしが小学校4年生から5年生になる間の春休みを利用したカテ入院…だったのですが、風邪を引いてしまいCRPの結果が悪かったので、その時はカテしないまま退院することになってしまいました。
後日リベンジしてようやくカテを受けることが出来ましたが、わたしが赤子の頃はカテ後に血が止まるまで何日もベッドに縛りつけられていた*1ようですね。
特に赤子は自分の意思で動かないように我慢するなどできないからでしょうけれども。
果たして10歳のわたしは、ベッドの上で1晩動かずにじっとしていることが辛くて泣いていました。笑
母に「少しくらい我慢しなさい」「赤ちゃんの時のあなたの方がよほど頑張ってたわよ」と呆れられたのを覚えています…そんなん言うても赤ちゃんの頃の記憶なんてないもんね。
カテは部分麻酔で受けたのですが、コテンと寝てしまい、目が覚めた時にはカテが終わるところでした。先生が血だらけの手でわたしの鼠蹊部を押さえながら「もう終わるよ」と声をかけてくださった記憶があります。
うわ先生の手血だらけじゃん、とか思った気もしますが、今でも自分の血だけは割と平気です(他人の血は苦手)
カテの結果、翌年(小5→6になるタイミング)に機械弁を大人サイズに変える手術を受けることになりました。
先生からは「お母さんくらい大きくなってもこれで大丈夫だよ」と言われたのですが、その新しい弁の付いた位置がよほど良かったのか何なのか、オチとしてはリアルに母と同じ身長(166㎝)まで伸びてしまいました。
手術の時の入院は、術後の一部の時期を除き、大部屋で母の付き添いでの泊まりはありませんでした。
手術の前夜は食事制限がかかるギリギリの時間までココア味のクマの形のクッキーをバリバリ食べながら「今のうちに食べておかないと」とだけ考えていたのを覚えています。
白と青の円柱状の缶だったことも覚えているのですが、メーカーが思い出せません。
手術当日は、麻酔を吸わされて、もし意識があるうちに麻酔が効いたと勘違いされてメスを入れられたら嫌だからギリギリまで目を開けていようと頑張ったのですが(発想が子供)、当然そんな努力も虚しく気が付いた時には既にICUでした。
ちなみに両親はわたしを見送ると「あとは先生に任せた」と言ってごはんを食べに行くようなタイプです。
※そしておそらく我が夫もそのタイプです
術後はICUにいる間はとにかく胃に入った管が胃の壁に当たるかなにかで痛くて不快でわーわー泣いて「痛み止めを寄越せ」と度々訴えていましたが、看護師さんも「ハイあんたは経過良好!」みたいな雰囲気でしたし、親も「泣くほど元気があるならいいわw」という、今になって思えばとってもお互いが楽なスタンスでした。
だって親がおろおろしたって自分の予後は何も変わらないもんね。笑

入院中にお世話になった先生と看護師さんと同室で仲良くなった子たちと撮ったもの。
ポータブル心電図(何と呼べばいいのかこれ)のコードがパジャマのボタンの間から出ている。
術後はとにかく水分制限がつらかったのはよく覚えています。
当時はICE BOXを買ってきてもらって、時間をかけてゆっくりなめたり、うがいをして耐えるしかありませんでした。
それから、おなかにつながった二本のドレーンを麻酔無しで抜かれて傷口を縫われた時!
あれはびっくりするほど痛くて廊下に声が響き渡るくらい泣き叫びました。
傷口の一番上が微妙に開いてきてしまって、プラスチックの柔らかい針を傷口に差し込んでシリンジに詰めた生理食塩水を流して洗うのが沁みて心が折れそうになったり。
塗った糸が出てきてしまって、その糸を切ってもらう時にちょっと引っ張られて痛かったり。
ベッドから身体を起こすのもなにをするにも傷跡が痛かったり。
左右で鎖骨の高さが変わってるじゃん!と母とびっくりしたり。
↑
めちゃめちゃサラっと「開胸手術した」と書いてあって、どれだけ手術そのものより鎖骨のほうが自分にとって深刻に思っているかを改めて知って書きながらちょっと笑ってしまった
ただまぁ、一番記憶に残っているのって、病棟にいた先生に毎日のように将棋の相手をしていただいたこと(大変な激務の中よく嫌な顔ひとつせず付き合ってくださったなと感謝しかない)、同室にいたひとつ年上の女の子*2と仲良くなって、夜は親が帰るのを良いことにその子と夜中まで将棋を指していたこと、その子と夜中に隣の病棟まで散歩に繰り出していたこと、そんなわたしたちのことを看護師さんたちも「うるさくしなければいいよ」というスタンスで暖かく見守ってくださったこと、とかの楽しいことがほとんどです。
両親が漫画を大量に買ってきてくれて、毎日それを読みふけってゲラゲラ笑っていたらびっくりするくらい回復も退院も早かったので、身体が弱った時は出来るだけ面白いコンテンツに触れて笑うべきだと今でも信じています。
いまはネットやタブレットがあるからいいですね。
水分制限がなくなってからは、病院食に飽きた!というわたしのために、親がデパ地下のお惣菜やカップ麺(!)などを買ってきてくれて、わたしがそちらを食べて親が代わりに病院食を食べるなんてこともありました(良い子は真似してはだめ)。
わたしは基本的に「自分は寝ているだけで、大変なのは執刀してくださる先生方やつきっきりで身の回りのことをしてくれる親のほう」という考えだったので「よく頑張ったね」と言われることにはちょっと違和感がありました。
もちろん術後の社会復帰は本人の努力が必要だけれども。
1ヶ月も入院しているとただでさえもやしだったわたしに筋肉なんてものはすっかりなくなってしまうので、退院後は小学校までの片道10~15分すら休み休みでないと歩けなかったり、まっすぐ立っているだけでしんどかったり、腹筋がなさすぎてお腹が痛くなったりしていたことは今でもよく覚えています。
「心臓も筋肉なんだから少しは鍛えないとね」と当時の主治医にはよく言われていました。
この歳になるまでその意味が理解できていなかったなぁと今更ながら思います。
そもそも足腰をちゃんと鍛えることが出来ていれば、ちょっとやそっとの運動量では心肺に負担がかからなくて済むはずですしね。
あの時に目先の楽さに引っ張られず自分を甘やかさなかったら、今頃もっと綺麗な姿勢を保てていたんだろうなぁとちょっと後悔もしています。
大人になってからの入院は持病と直接関係のないものばかりです。
- 口腔外科で歯ぐきを切開して埋まった親知らずを取り除くため(心内膜炎予防とかたくさん出血するのでその処置のため)
- 急性胆管炎(こんなに苦しいならいっそ死んだほうが楽なのではと本気で思ったのは後にも先にもこの時だけ)
- ごはんが食べられなくなりやせ細った(どう考えてもメンタル起因です本当にありがとうございました)
- マイコプラズマ肺炎により体温計の数字が40度を叩き出した(体温が39度を切った時の呼吸のしやすさは格別)
またいつか心臓関係で入院する日が来るんだろうな、と漠然と思ってはいるのですが、それが10年後なのか、はたまた明日なのかは良く分かりません。
とりあえず、結婚してから既に2回は入院しているので、夫もわたしが入院する時のことはうっすら心得てくれたような気がしますし、頼んだぞバディ、と思っています。