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【先天性心疾患】カテ・手術で入院した時のこと【10~11歳】(2021/9/20加筆修正)

先天性心疾患を持つわたしは今までの人生で心臓の手術を計3回受けていて、入院回数はもちろんそれよりもっと多いのですが、実際に記憶にあるのは小学校4→5年生の時のカテ入院以降です。

わたしが受けた手術は、ざっくり言って下記の3つ。

  • 心内膜床の穴にパッチを当てて塞ぐ手術&弁形成(生後8ヶ月)
  • 僧帽弁形成の予後が良くなく心不全を起こしちゃったので僧帽弁を機械弁にする手術(生後1歳半)
  • 機械弁を大人サイズにする手術(11歳半)


昔のことは本当であればもっと詳しく親にインタビューして記録として残しておきたいところですが、ひとまずわたしが今まで聞いてきたことを。
ちゃんとまとめたら別エントリに残したいと思います。


わたしの病気(完全型心内膜床欠損症/完全型房室中隔欠損症)に限らず他の先天性心疾患もそうだと思うのですが、3x年前はいまのように胎児エコーで病気が見つかることはなく、

  • 生後何ヶ月経っても大きくならない
  • ミルクの飲みが悪い
  • 飲んでも吐く

などといった様子に「これはおかしい」と思った親が病院に連れて行って病気が発覚しています。

当時この手術を出来る病院は日本に二ヶ所しかなく、当時住んでいた地域の総合病院から近くの大学病院、そして、それ以降ずっとお世話になっている「心臓といえばここ」な大学病院へと紹介に紹介を重ね、最初の手術にたどり着きました。
母は「毎日必死過ぎて、『どうしてうちの子が』とか悲しんでいる暇がなかった」と良く言っていました。

生まれるのが10年早かったら治療法が確立されておらず助からなかっただろうとか。
手術をしないと1歳まで生きられないとか、
手術前に風邪を引かせたら死ぬと言われて母はわたしと毎日家に引きこもっていたとか。
いまでは考えられないことだけれど、わたしは生まれた時に4020g(!)あったので、その体重のおかげで当時でも手術に踏み切ることが出来たのだとか。

もうとにかく色々なことが重なり合っていま生きているわけで、ありがたいことに毎日仕事のことで怒髪天になっちゃうくらいに病気を意識することなく俗っぽい普通の生活(と自分では思っている)を送っています。


以下からは、特に何のドラマもないですが、伝聞ではなく自分の記憶にある限りの入院時のことをつらつら書いてみます。

 

 

カテ入院(10歳半)

記憶にある最初の入院はわたしが小学校4年生から5年生になる間の春休みを利用したカテ入院…だったのですが、あいにくそのタイミングで風邪を引いてしまいCRPの結果が悪く、その時はカテしないまま退院することになってしまいました。
当時カテは「盲腸の手術より危険」と言われていて、風邪を引いているなんて状態では予後が悪くなることが想定されてとても実施に踏み切れなかったためです。

そうでなくとも、ただでさえ風邪ひとつ引かせられないような赤ちゃんや子供がたくさん入院している循環器小児科の病棟に風邪っぴきが入院しているなんて、他の子に移したら大変なわけで。
そりゃ追い出されるわ、と後で冷静になって考えてみれば分かります。

カテそのものは後日リベンジして受けることが出来ました。

全麻か部分麻酔を選ぶことが出来、「終わってからすぐにごはんが食べられるようになるよ」的なことを言われて部分麻酔を選びました。
あんなに注射が痛いと分かっていたら全麻を選んだかもしれません。

部分麻酔だったとはいえカテの最中はすっかり寝てしまい(いま思うと鎮静剤でも入っていたのだろうか)、目が覚めた時にはカテが終わるところでした。
先生が血だらけの手でわたしの鼠蹊部を押さえながら「もう終わるよ」と声をかけてくださった記憶があります。
うわ先生の手血だらけじゃん、とか思った気もします。

わたしが赤子の頃はカテ後に血が止まるまで何日もベッドに縛りつけられていた*1ようです。
特に赤ちゃんは自分の意思で動かないようにじっと我慢するということが出来ないからでしょう。

10歳のわたしは、カテの日の晩、ベッドの上で動かずにじっとしていることが辛くて泣きました。笑
付き添い入院していた母に「少しくらい我慢しなさい」「赤ちゃんの時のあなたの方がよほど頑張ってたわよ」と呆れられたのを覚えています。

3回目の手術(11歳半)

カテの結果、翌年(小5→6に上がるタイミング)に機械弁を大人サイズに変える手術を受けることになりました。
先生からは「大きな弁にしたからお母さんくらい身体が大きくなっても大丈夫だよ」と言われたのですが、その新しい弁の付き方がよほど良かったのか、結果としてはリアルに母と同じ身長(166㎝)まで背が伸びてしまいました。

手術の時の入院は、術後の一部の時期を除き4人部屋で、母の付き添い入院はありませんでしたが、母は毎日面会時間になると病室まで来てくれました。
また、ICUを出てから一般の4人部屋に移るまでの期間、個室に入っている時などは母が付き添い入院をして身の回りの世話をしてくれていました。

手術前夜

手術の前夜は食事制限がかかるギリギリの時間までココア味のクマの形のクッキーをバリバリ食べながら「今のうちに食べておかないと」とだけ考えていたのを覚えています。
白と青の円柱状の缶だったことも覚えているのですが、メーカーが思い出せません。
手術が怖いといったような気持ちも本当になくて、ただ「明日手術だ」という事実を淡々と受け入れていた気がします。

手術当日

手術室に入ってから麻酔を吸わされて、
「もし意識があるうちに麻酔が効いたと勘違いされてメスを入れられたら嫌だからギリギリまで目を開けていよう」
と頑張ったのですが(発想が子供)、当然そんな努力も虚しく、左手の甲に点滴の針が刺さったような気がするなぁ、と思った次の瞬間には既にICUのベッドにいました。

ちなみに両親はわたしを見送ると「あとは先生に任せた」と言ってごはんを食べに行くようなタイプです。
※そしておそらく我が夫もそのタイプです

術後つらかったこと、痛かったこと

目が覚めた時には人工呼吸器も抜けていて、普通に声が出せました。

ICUにいる間は鼻から胃に入ったドレーンが胃壁に当たっているかなにかでとにかく痛くて仕方なく、ひたすら泣いて「痛み止めを寄越せ」と度々訴えていました。
看護師さんも「ハイあんたは経過良好!」みたいな雰囲気でしたし、親も「泣くほど元気があるならいいわw」という、今になって思えば非常にどーんと構えた大人たちに囲まれていました。
当時は死ぬほど長く感じられたICUですが、実際には2〜3日ほどで出たように記憶しています。

術後はとにかく水分制限がつらかったのをよく覚えています。
当時はICE BOXを買ってきてもらって、時間をかけてゆっくりなめたり、うがいをして耐えるしかありませんでした。

www.morinaga.co.jp

 

水分制限がなくなってからは、病院食に飽きた!というわたしのために、親がデパ地下のお惣菜やカップ麺(!)などを買ってきてくれて、わたしがそれを食べて親が代わりに病院食を食べるなんてこともありました。

記憶する限りで一番痛かったのは胸水を抜くためにお腹に繋がっていた二本のドレーンを麻酔無しで抜かれて傷口を縫われた時!
あれはびっくりするほど痛くて廊下に声が響き渡るくらい泣き叫びました。
なぜ麻酔をしてくれなかったのか未だに謎だし、今後手術を受けたとしてまた同じ目に遭うのかと思うと暗澹たる気持ちになります。
あれは大人でも絶対泣く。

微妙に痛かったのは、傷口の一番上が微妙に開いてきてしまって、生理食塩水を流して洗ってもらった時。
生理食塩水がシリンジに入っていて、先にはプラスチックの柔らかい針がついていて、その針を傷口に差し込んで洗うのだけれど、地味に染みて痛かったのを覚えています。

塗った糸が出てきてしまって、その糸を切ってもらう時にちょっと引っ張られて痛かったりもしました。
糸そのものは本来であれば時間をかけて体内で吸収されるものだけれど、外に出てきてしまったものはそうもいかないためです。

他にも、術後には術前に感じたことのない色々なことがあっていちいち新鮮だったことを覚えています。
ベッドから身体を起こすのもなにをするにも傷跡が痛かったり。
左右で鎖骨の高さが変わってるじゃん!と母とびっくりしたり。

maykkzk.hatenablog.jp


めちゃめちゃサラっと「開胸手術した」と書いてあって、どれだけ手術そのものより鎖骨のほうが自分にとって深刻に思っているかを改めて知って書きながらちょっと笑ってしまった


なんだかんだで入院は楽しかった

痛い思いや辛い思いもしたけれど、手術のために入院した1ヶ月間の中で真っ先に思い出せるのは、
病棟にいた先生に毎日のように将棋の相手をしていただいたこと(大変な激務の中よく嫌な顔ひとつせず付き合ってくださったなと感謝しかない)、
同室にいたひとつ年上の女の子*2と仲良くなって、夜は親が帰るのを良いことにその子と夜中まで将棋を指していたこと、
その子と毎晩夜中に隣の病棟まで散歩に繰り出していたこと、
そんなわたしたちのことを看護師さんたちも「うるさくしなければいいよ」というスタンスで暖かく見守ってくださったこと、
といったような楽しいことばかりです。

f:id:maykkzk:20200309010858j:image
入院中にお世話になった先生と看護師さんと同室で仲良くなった子たちと撮ったもの。
ポータブル心電図(何と呼べばいいのかこれ)のコードがパジャマのボタンの間から出ている。



両親が漫画を大量に買ってきてくれて、毎日それを読みふけってゲラゲラ笑っていたらびっくりするくらい回復も退院も早かったので、身体が弱った時は出来るだけ面白いコンテンツに触れて笑うべきだと今でも信じています。

退院後

わたしは基本的に「自分は寝ているだけで、大変なのは執刀してくださる先生方やつきっきりで身の回りのことをしてくれる親のほう」という考えだったので「よく頑張ったね」と言われることにはちょっと違和感がありました。
もちろん術後の社会復帰は本人の努力が必要だけれども。

1ヶ月も入院しているとただでさえもやしだったわたしに筋肉なんてものはすっかりなくなってしまうので、退院後は小学校までの片道10~15分すら休み休みでないと歩けなかったり、まっすぐ立っているだけでしんどかったり、腹筋がなさすぎてお腹が痛くなったりしていたことは今でもよく覚えています。

結局中学2年生くらいまでは学校の行き帰りの歩きもちょっとしんどかったような記憶があります。
高校に入ってから電車や自転車を使って通学をするようになって、ようやく日常生活に差し障らない程度の体力がつきました。

「心臓も筋肉なんだから少しは鍛えないとね」と当時の主治医にはよく言われていました。
この歳になるまでその意味が理解できていなかったなぁと今更ながら思います。
そもそも足腰をちゃんと鍛えることが出来ていれば、ちょっとやそっとの運動量では心肺に負担がかからなくて済むはずですしね。
あの時に目先の楽さに引っ張られず自分を甘やかさなかったら、今頃もっと綺麗な姿勢を保てていたんだろうなぁとちょっと後悔もしています。

大人になってからの入院

大人になってからの入院は持病と直接関係のないものばかりです。

  • 口腔外科で歯ぐきを切開して埋まった親知らずを取り除くため(心内膜炎予防とかたくさん出血するのでその処置のため)
  • 急性胆管炎(こんなに苦しいならいっそ死んだほうが楽なのではと本気で思ったのは後にも先にもこの時だけ)
  • ごはんが食べられなくなりやせ細った(どう考えてもメンタル起因です本当にありがとうございました)
  • マイコプラズマ肺炎により体温計の数字が40度を叩き出した(体温が39度を切った時の呼吸のしやすさは格別)

 
またいつか心臓関係で入院する日が来るんだろうな、と漠然と思ってはいるのですが、それが10年後なのか、はたまた明日なのかは良く分かりません。
とりあえず、結婚してから既に2回は入院しているので、夫もわたしが入院する時のことはうっすら心得てくれたような気がしますし、頼んだぞバディ、と思っています。

追記(2021/9/20)

久しぶりに読み返したら、あまりに読みにくい文章でゾッとしてしまい、大した改善ではないかもしれませんが一部修正しました。

また、これを書いている現在、先天性心疾患とは全く関係ない新たな持病を抱えてしまい、かれこれ3ヶ月ほど入院しています。
まさか心臓と関係ないことでこんなに長期の入院をするなんて夢にも思わずびっくりしているけれど、夫が支えてくれているので、昨年このエントリを書いた時のわたしに「夫はちゃんとケアしてくれるから大丈夫だぞ」と言ってあげたいなと思います。笑
この「新たな持病」のことも、病状が落ち着いたら改めて書いていきたいと思っています。

 

*1:大人になってから入院した時に、カテのあと割とすぐベッドの上で起き上がったり車椅子に乗っている子を見て「医学の進歩ってすげー!」と素直に感動しました。

*2:大人になってから入院した時に偶然同部屋にその子がまた入院してきたことがあって、すごく盛り上がってLINEを交換したりFacebookで繋がったりしたのだけれど、いつの間にかいなくなってしまった…!